福岡高等裁判所宮崎支部 昭和51年(う)48号 判決 1980年3月04日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中一、二〇〇日を原判決の本刑に算入する。
理由
本件控訴の趣意は被告人及び弁護人田平藤一作成の各控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は福岡高等検察庁宮崎支部検事柴田和徹作成の答弁書に各記載されたとおりであるからここにこれを引用する。これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。
所論はいずれも要するに、原審が証拠として採用した被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書は、被告人が別件詐欺事件によつて逮捕勾留されていた期間中に、右身柄拘束を利用して取調をなし、なお、被告人の健康状態がすぐれなかつたにも拘らず、早朝から深夜にわたつて手錠をかけ、その紐はテーブルに結びつけたままの状況下で拷問、強制、誘導によつて作成されたもので、その供述には任意性がない。又被告人は当時神奈川県へ出稼ぎに行つていたとはいえ、右出稼ぎは例年の如く家業の合間をみて出かけるというもので、本籍地には妻子も父母も居り、職業も、その住所も明らかであるから被告人を逮捕する必要もなかつた。しかるに司法警察員はこと更事実を構え、別件により被告人を逮捕したもので、右逮捕は表面的には適法な逮捕状によるものとはいえ、実質的には逮捕手続自体が違法であり、これに基く勾留も違法といわなければならないから、司法警察員及び検察官が右身柄拘束中に収集した本件証拠も違法というべきである。従つて原審がこれら任意性も真実性もない違法収集証拠をもとに原判示事実を認定しているのは採証法則を誤り、ひいては事実を誤認したものであつて、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。
そこで原審記録を調査検討し、当審における事実調の結果をも合わせ、所論の当否について以下判断する。
一 まず、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に記載されたその供述内容を具さに検討し、且つ捜査段階で収集された各証拠物を吟味し、原審証人浜ノ上仁之助、同福山喜久雄、同大霜兼之の各供述記載及び被告人の原審第一〇回、第二六回、第二七回公判における各供述記載を合わせ考察すると、右各調書に記載の被告人の供述が主張のように任意性を欠くものとは到底認められない。もつとも、原審における被告人の二転、三転する供述や右浜ノ上供述記載から窺える被告人の短気で興奮しやすい性格に対し、或程度理詰めの尋問がなされる結果となつたことが十分窺われるが、しかしながら捜査官が被疑者の取調に当つて理論上若しくは他の収集資料等の関係上、あいまいな供述や虚言と思われることを理詰めで確めたり、説得したりすることは、それが任意性を疑わせる方法によるものでない限り、真実な供述を得るためには必要なことであり、従つて右のような取調がなされたからといつて、そのことから直ちにその供述の任意性を否定することはできない。又取調にあたつて、鹿屋警察署々長公舎の八畳間を使用したことが認められるが、右はたまたまその当時選挙運動期間中で、同署には選挙関係人や報道関係者の出入りが多く、又手狭まであつたことによるものであり、更に取調が夜間一〇時ころまでにわたつたことがあつたとしても、被告人が、アリバイの主張をし、それが裏付捜査によりくずれると更に次のアリバイを主張するなどしたことから、その度にその裏付をとることに手間どり、又容疑が晴れれば早い機会に釈放できるとの捜査官の判断もあつて、取調の時間が長びいたことによるものであつて、被告人自身夜間の取調に異議を述べたことも認められないし、なお又健康状態には、特段の注意を払つて取調にあたり、定時には他の被疑者らと一諸に休息を与え、足が腫れる、熱がある、血圧が高いと体の異常を訴えた際は医師に診断させて投薬し、医師から取調に支障がないとの診断結果を得たうえで取調にあたつていることが認められる。特に検察官の取調においては、身体の拘束が長くなつていることや、供述が二転、三転したうえで自白していることを重視し、被告人に対し「警察で自供したのが嘘であれば嘘であるということを述べてくれ」と念を押し、「体を楽にして答えなさい」と促したにも拘らず、被告人は正座を崩さず、涙を流しながら「事件後、私は大変なことをしてしまつたと後悔し、悔まない日はありませんでした。今日申上げてあることはすべて事実です。自分でやつたことは自分で責任をとるべきであると反省し、真実を申上げているのです」と述べているのであつて、本件には被告人主張のような捜査官の取調の間、手錠が施されたとか、腰縄も椅子に縛りつけられていたとか、その他拷問、脅迫、不当な圧迫や誘導など任意性を疑わせる事情はなんら認めることができない。所論各調書の記載内容を検討してみても、否認すべきは否認し、自ら供述を改めるなど、被告人が主張しようとするところは十分明らかに録取されており、特に右の検察官に対する供述部分は、被告人自らの意思による当時の自己の真情を吐露したものというに足る内容である。被告人は後段の如き経緯から逮捕され、本件殺人容疑事実についても取調を受けるなかで、犯行日前後の自己の足どりを述べ、関係人の名前を明らかにし、その裏付けが得られないとなると、他のアリバイを述べるなどしたが、遂にはアリバイの説明がつかなくなり、結局、他の参考人の供述及び物的証拠等を示され、理詰めの尋問を受けることとなつて、犯行を自供するに至り、被害者らとの関係を述べ場所的状況を図示し、犯行態様を自ら行為で示し、その動機を述べ、又自分も被害者利則から受傷せしめられたといつてその傷口を示し、現在の心境を語るなどしたもので、その供述は具体的、詳細でなんらの不自然さもない。そして被告人はその一〇数通の上申書によつても明らかのように、相当程度の教養がある者であつて、しかもその自白が極めて重大な二人を殺害したという犯罪に関するものであることに徴すれば、被告人が自分に関りのないことを克明に自白するなどとは到底考えられないから、右経緯及び原判示挙示の関係証拠に照らして検討すれば、本件には、右各供述調書の任意性を疑わしめる事情はなんら存在しないものというべく、その信用性を否定すべき資料も発見できない。そして後述のように当審での事実取調の結果をも斟酌して考えると、右各供述は一層信用すべきものと思料される。
二 被告人の本件被疑事件による逮捕の経緯及びその供述の変遷
原判示の関係証拠によれば、以下のような事実が認められる(なお主な証拠はカツコ書で付記する)。
(一) 本件捜査の端緒
被害者利則の兄折尾辰二は、建築大工棟梁であることから、利則の依頼で、同人方厩舎の小屋替え工事を昭和四四年(以下特に省略するものはすべて昭和四四年の意である。)一月一七日から着工することとし、手下の大工新牛込正夫、同上之段一雄の二名に対し、一七日より利則方に出向いて材木の切込みなどをやつておくよう命じておいた。そこで両名が、利則方を尋ねると家中が戸締りされていて、家人が不在のようだつたので、辰二の右指示に従つて庭先に置いてあつた材木の切込みなどをし、翌一八日も同作業を続けた。同日、午後一時ころ電気料集金人が尋ねてきて家人の留守を確める風だつたが、突然急いでひきかえして行つたので右上之段が不審に思い、同家の裏へ廻つたところ、飼い牛二頭が手綱を切つて厩舎外に出ており、厩舎内の飼料桶をみると空になつており、台所側雨戸の櫛目の穴から中を覗くと居間の方に人の足らしきものが見えたので、両名は驚いて、早速、利則の父長吉方へ出向いて仔細を告げた。
その後長吉夫妻が同所へ出向き、室内へ入つたところ、利則夫妻が血まみれになつてすでに死亡していることを目撃したので両名はそのことを右辰二に告げて同人から警察への届出をさせた。
(二) 犯行現場の状況と被害者両名の死因
一月一八日午後二時一五分鹿屋警察署長は、該事件発生の報告を受けて直ちに警察官数名を現場へ派遣し、捜査及び実況見分に当らせたところ、同家六畳間の畳、布団のうえ、壁、障子等に多量の血痕が付着し、二枚敷かれた敷布団の南向きに敷いた側の一方には妻キヨ子が下半身裸体のまま、俯せになつて倒れて絶命し、そのうえに掛布団をかけ、夫利則はキヨ子の敷布団と別の敷布団のうえに、シヤツ、ズボン等を着たまま俯せになつて倒れて絶命しており、そのうえに掛布団がかけられていた。被害者両名とも頸部にタオルが巻きつけられており、利則には頭頂部から後頭部全体にわたつて、少なくとも八個以上の挫裂創及び頸頂部に索痕壱条が、キヨ子には頭部、左耳介部等に挫裂創計五個及び頸部に索痕壱条が存在し、解剖の結果、両名の頭部等に見られる各創傷を生ぜしめたと推定される成傷器は、いずれも「多少とも角稜を有する鈍器ないしは鈍体」であり、利則の死因は、右の後頭部挫裂創に由来する頭蓋骨々折並びに頭蓋底骨折及び脳挫傷で、キヨ子の死因は絞頸に基く窒息死であること及び両名の死後解剖着手時(キヨ子は一月一九日午後一時一五分、利則は同日午後四時五分)までの経過時間は、約一日以上三~四日以内であることが判明し、両名とも他に死因とみるべき損傷、病変がなかつたことから同署においては両名は何者かによつて兇器で殴打され、又絞殺されたものとの判断に基き捜査が進められることとなつた。
(三) 捜査官による実況見分、物的証拠の収集と付近居住者の聞込み
犯行現場である鹿屋市下高隈町五二五番地は、鹿屋市街地の北方約一三キロメートルの位置にあつて同下高隈町の中央部落よりほゞ東方に約二五キロメートルの山間部にあり、田方部落と呼ばれ、同所より七〇〇メートル東方に坂道を進行すると曽於郡大崎町野方と境界を接する辺ぴな地域である。現場への道路は、右の下高隈町中央部落三叉路より大崎町野方に通ずる県道が東方にゆるやかな坂で通じ、その県道を隔てて杉、松、雑木等の植林がなされた山林の間に畑があり、利則宅は同県道のほゞ中間にあつて、東方に通ずる幅員二、一メートルの上り勾配の私道を約三二メートル進行した位置にあり、杉立木のため県道側よりは望見できない。入口には高さ約一メートルの両開きの施錠の設備のない木戸が設けられており、敷地内には瓦葺平家建住家一棟、藁葺厩舎一棟が建築されている。近隣は西方に約五〇メートルの位置に県道を隔てて小薄アサギク、吉田正、善福時義の居宅が点在する。右厩舎東側小屋には利則所有の原動機付自転車が格納されており、住家西側の空地には製材が並べられ、工事が中断されている状況にあつた。住家内部は、東側に土間に続いて上り縁があり、左に囲炉裏のある二、五畳、右に四、五畳の居間、その先に障子で仕切られた床の間のある表六畳の部屋が続いている。囲炉裏のある二、五畳の居間には利則が脱ぎ捨てたとみられる衣類(ジヤンバー、軍手、帽子、タオル、靴下半足)のほか、囲炉裏の周囲に茶道具、ドンブリ、鍋等が散在し、同所には血痕付着部分は少ない、四、五畳の居間にはテレビ、電気炬燵が置かれていて、同炬燵の上に未発送の一月一五日付差出人キヨ子名義、愛知県在妹の木原じゆん子宛の封書が便箋紙等と一緒にあり、炊事場土間の左側にカマドが据えつけられ、牛の飼料を炊き残りのある釜が乗つており、カマドと戸袋の間の隙間に薪が置いてあり、そのうちの根元の直径四センチ、長さ七二センチの一本に血痕が付着するのが認められた。表六畳の間の床の間には飾餅があるほか、夜具棚、タンス、裁縫台、ミシン等が置いてある。同室内の布団は敷布団、掛布団とも乱雑で、掛布団は犯行後に被せたような形状で、裸電球の照明設備は消灯されていた。キヨ子の掛布団をめくると布団裏側部分のキヨ子の頭部と接する部分に血痕が付着し、着衣はネル寝巻にネルメリヤス、肌襦袢を着して腰紐でくくり、下腹部より下肢は露出し、頭部の頭髪は乱れ、糊状の血液が同所に付着し、喉頭部にタオルを前面より後方に回し、ほゞ折半する位置で右ひねりにより合わせ緊縛されたあとで緊縛が緩んでいる状態にあり、受傷部位は左耳後方側頭部に骨膜に達する水平に走る切創、後頭部、右頭頂部に骨膜に達する挫滅創、左手背部に水平に走る形状の刺創、左眉毛外端部に水平に接する切創が認められた。利則はキヨ子の東側の位置に掛布団、敷布団を重ねて頭部を中心に被せてあり、これらを除去すると、頭部を南西に、足部を北東に、躯幹を伸ばし、俯せになつて畳の上に直に倒れており、着衣は白と茶色の綿メリヤス各一枚とカツターシヤツ、そのうえから紺色チヨツキを着し、股下は綿ネルズボンと白綿ズボン二枚を着用し、毛糸腹巻を使用し、綿パンツを着し、左足の一方にパイル足袋靴下を着しており、同靴下と同一の右足から脱けたとみられる一方は同六畳間北東側に放置されていた。利則の喉頭部にもキヨ子同様、前面より後方にかけてタオルを回し、右ひねりにより合せて緊縛されたあとがあつて、緊縛がゆるんでいる状態で畳に俯せになつて倒れており、受傷部位は後頭部全体にわたつていて、少なくとも八個以上の複雑な形態の挫裂創が存し、而も著しい程度の頭蓋骨々折、頭蓋底骨折を伴い、さらに著しい脳挫傷が認められた。左手首付根部に腕時計を着するが同時計のガラス、長短針は飛散して、その文字板の日付が15から16に移動する時間帯に停止していた。被害者両名の顔面に接した部分に最も多量の凝固した糊状の血液がそれぞれ付着し、そのほか、天井の一部、床の間、障子、タンス、裁縫台、ミシン等にも粟粒大より大豆大の無数の血痕が認められた。
なお、キヨ子の左下肢のあつた部分にネル股下、木綿パンツがそれぞれ裏がえしの状態で丸められて置かれており、床の間の鏡餅は飛散し、湯呑みも転倒し、水がこぼれた状態にあり、厩舎には牛三頭が飼育されていて、同厩舎内に発動機による飼料のカツター設備がなされていることなどが見分された。そこで捜査官は右犯行現場より各物的証拠を領置するとともに、付近居住者に対し、被害者の立回り先、被害者居宅へ出入りした者等への聞込みを始めた。
(四) 犯行の日時について
犯行日時の特定については、前記利則の腕時計の鑑定に付した結果、同時計は外部からの衝撃により破損したもので、停止時刻はカレンダーの表示実験及び分解検査による日送車の爪位置から一五日の午後八時ころから午後一二時ころまでの時間であることが判明した(鑑定人上迫和典作成の鑑定書)こと、キヨ子が書いたと認められる木原じゆん子宛の手紙の封筒に一月一五日と日付が記入されていたこと、鹿屋農協支所運転手が同月一六日に家畜飼料の請求書を届けた利則方に出向いたところ、戸締がなされ、家人が留守のようだつたので、請求書を戸の隙間に鋏んで帰つたこと、被害者両名の死体解剖の結果胃の内容物、消化状況から同人らが食後約二時間ないし四時間以内に死亡したものと認められたこと、キヨ子は一月一五日午後六時ころ近所の善福時義方を訪ね、「利則からテレビが映らないので見て来いといわれて来た」といつたので、同人がスイツチを入れると映るのを確め、主人が今テレビを修理しているので早く帰るといつて戻つたこと(善福時義の司法警察員に対する供述調書)、利則は一月一五日午後六時三〇分ころ、上別府部落に住む叔母の久留ウメを訪ね、「テレビが音が出るが像が映らないので下高隈の立木電気店へ行つての帰りだ」といつて部屋へ上り、プロレスのテレビ中継放送(放映時間は午後七時から八時までの約一時間)を見ながら出された焼酎を飲み、焼魚、大根おろしを食べて午後八時一五分ころ単車で帰つたこと(久留ウメの司法警察員及び検察官に対する各供述調書)、久留ウメ方から被告人宅までの距離は約二、〇〇〇メートルで、単車で毎時二五キロで走行すると約五分で帰り着くこと(司法警察員作成の七月九日付捜査報告書)により、被告人が同女方を午後八時一五分ころに辞去して帰宅したとすれば、途中、他に立寄り先がない限り八時二〇分ころには帰宅したものと推定されること、そして捜査官の付近居住者に対する聞込み捜査の結果、被害者両名とその後に会つた者がいないこと等を総合すると、一月一五日晩の午後六時二〇分ころ利則がテレビ修理の用件で下高隈に出向き、帰りに上別府部落の久留ウメ方に立寄つて右時間を費して帰宅した間の二時間(六時二〇分から八時二〇分までの間)は、キヨ子は単身で在宅していたもの、又利則は右八時二〇分以降は自宅に戻つていたものと推定され、従つて本件の犯行時間は右一五日午後八時二〇分ころから同日一二時ころまでの間であると判断すべきであるから、被害者両名の死亡推定時刻も右時間内に求められなければならない。
(五) 本件犯行前後における被告人の行動
前記実況見分に続く捜査の過程で、
(1) 一月二五日犯行現場の木戸の木戸道及び庭先等から足跡一二個、車轍痕二個が採取されたので、これに石膏採取を施し鑑定した結果、そのうちの車轍痕一個が、当時被告人が所有していたダイハツゼツト軽四輪貨物自動車(以下「軽貨物車」という)のタイヤ痕の紋様及び磨耗の形状と符合することが判明した。ところで右軽貨物車は、昭和四三年一二月ころ被告人が高隈町在忍モータース(代表者田中忍)に出向いて、当時自己が所有していた単車を同モータースで二万五、〇〇〇円で売つてもらうこととし、自分は同モータース所有の中古車である同軽貨物車を一万五、〇〇〇円で買い取り、自車が売れた時点で代金を決済しようと話合つて、互いに車両を交換し、被告人はそのころから同軽貨物車を利用して籾や竹等の運搬に使つていたものである。しかしながら、被告人は本件犯行の日と推定される右一月一五日から五日後の一月二〇日に、右田中に対しひと言の断りもなく、同軽貨物車を忍モータース前の道路に放置しておいたので、その後に田中が被告人と会つた際使わないならひき取るからといつて受取つていること(原審証人田中忍の供述記載)、
(2) 捜査官の聞込みの結果、一月一五日午後六時五〇分ころ被告人は軽貨物車を運転して下高隈町在の脇かづ子を訪れ、同日午後七時からテレビ放映されたプロレス中継を見せてくれと申出て座敷に上り、同放送を見ていたが午後八時ころに放送が終つたので籾一俵を買受けて帰つたこと(原審証人脇かづ子の供述記載)、
(3) その帰宅途中の上別府部落で、小倉肇が新原清則方で行われた猟友会を午後八時ころに終つて帰宅すべく同人方から県道へ出て約五〇メートル歩いているとき、後方から被告人の運転する軽貨物車が来て、同乗をすすめられ、当初後部荷台に、ついで運転席に移つて同乗し、約七〇〇メートル進行した自宅へ曲る交叉路付近で下車したこと(該県道を東方へ進行していくと途中約一、〇〇〇メートル先に被害者宅があり、そこから同じく東方へ約一、六〇〇メートル行つた先に被告人の居宅がある。)(原審証人小倉肇の供述記載)、
(4) 被告人の妻船迫ヨシの供述によると、同女は一貫して被告人が一月一五日に帰宅したのは午後一〇時三〇分ころで、軽貨物車を運転し、脇方で籾を買つて帰つたと述べていることから、被告人は右脇方を出発して帰宅するまでに約二時間三十分を要したことになること、
(5) 一月一九日被告人は右捜査に従事中の中鶴純郎巡査と道路上で会つたが、同巡査に対し「事件のことで来たのですか」と尋ね、そうだと答えると「話したいことがあるから自分の家に来てくれ」ということだつた。そこで同巡査が同月二一日被告人宅を訪ねると被告人は同巡査が別段問を発したわけでもないのに、自ら「一七日の晩に被害者の家の前を通つたけれども、本人の家の門灯が消えていたので寄らずに帰つた」と述べた。そこで同巡査が「何か話があるということだつたが」と尋ねると、「被害者は、生前家族とあまり仲がよくなかつたので、おそらく今度の事件は身内の者じやないだろうか、しかし誰々と自分自身でいうと都合が悪いから刑事の人でもおかしいと思う身内の人の家の床下に盗聴器を仕掛けておけばよくわかるのじやないだろうか」と述べたこと(原審述人中鶴純郎の供述記載)、
(6) 一月二七日夕方、被告人はキヨ子の叔父にあたる福元正雄方を訪れ、「あなたの姉は俺を疑つて家に来たのか」と同人を詰り、福元が「そうではない」と断つたにも拘らず、そして当時同所には右捜査に従事中の警察官四名が聞込みに来ていることを知りながら、福元から上るように誘われたわけでもないのに自分で勝手に座敷に上つて来て、(今度の事件はむつかしいぞ、この事件は十が十でも三角関係に間違いない、何も証拠がなければ犯人は逮捕できんからなあ」と云い、これに対し福元が「何も証拠がないということはないだろう、何かよごれもんでも兇器でもありやせんだろうか」と言うと被告人はすかさず言葉をかえして「それはない」と答えた。そこで福元が続けて「それはどこか行つとらせんだろうか」というと被告人は「正兄よ、今、広が世の中に、ガソリンというものがあるから、ガソリンをかけて火をつければひん燃ゆつが、犯人を調べる前に身内の者を調べた方が良いのでは」と述べるなどして福元がキヨ子の身内にあたる者であることを知りながら、敢て捜査官を前に捜査の方向を身内に向けさせようと意図した発言をするなどしていること(司法警察員作成の一月二十七日付捜査報告書及び原審証人福元正雄の供述記載)
(7) 利則、キヨ子夫妻の告別式は、一月二一日に折尾長吉方で行われたが、被告人は、利則とは出身学校を同じくする同級生の間柄、被告人の妻ヨシとキヨ子とは出身部落が同じで、両家は夫婦でよく行き来しあい、畑仕事などもゆい(互いに雇われて力を貸すこと)してやるなどの関係にあつたというのに、右告別式には被告人夫婦とも参列しなかつた。一月二三日午後三時ころ被告人は長吉夫婦、五男衛が在宅しているときに、小学一年生の娘ひとりを連れて悔みに来たが、その際袋入り香典を仏前に供えながら、焼香することもなくそのまま帰つて行つたこと(折尾長吉の司法警察員に対する八月一日付供述調書及び原審証人折尾衛の供述記載)
(8) 二月一一日福岡部落在の赤田商店に同部落の者が立寄つて出稼ぎに行く話をしているとき、被告人も入つて来て自分も行くということだつたので、居合わせた小倉某が、「奥さんの出産も予定日を過ぎているというなら割れてから行けばいいのに」というと、被告人は「俺はうつかたがけ死んでん帰つちや来んよ」といつたことがあり、そして被告人は妻ヨシが「今度のお産はみごえど、そいで出稼ぎに行くのはやめてくれ、子供が生れてからは何もいわないから」と頼んだが、被告人は周囲の反対を押しきつて同月一三日神奈川県下へ出向いたこと(原審証人上之段ヒデの供述記載、舩迫ヨシの司法警察員に対する四月一二日付供述調書)
などの事実が明らかになつた。
(六) 詐欺罪容疑による逮捕事情
前記の如く、実況見分および聞込み捜査により、物的証拠、関係人供述等も得られたことから、被告人が犯行の日と目される一月一五日午後八時ころから同一〇時三〇分ころまでの間に、軽貨物車を運転し被害者方方面に向つたこと、被告人が運転していた軽貨物車のタイヤの紋様磨耗の形状が、被害者方から発見されたタイヤ痕のそれと類似したことのほか、被告人の言動に右の如き不審な点があつて本件事件になんらかの関りがあるのではないかという一応の疑いは残つたが、他に犯行の目撃者、指紋、遺留品、兇器等被告人を犯人と断定するに足りる客観的な資料がなかつたので捜査機関においては、被告人に対し本件殺人容疑による強制捜査はこれを控えて、右捜査の過程で別に明らかになつた被告人に対する詐欺三件、銃砲刀剣類所持等取締法違反の容疑で、被告人を先ず取調べるべく、そして右捜査の過程で被告人が当時の住居地を離れて神奈川県へ出稼ぎに出向いていて住居が不定であること、飲酒すると粗暴な振舞いに及ぶことがあるため、部落の人達から嫌悪されており、任意捜査となれば被害者や参考人等を威迫し、罪証を湮滅するおそれ及び逃亡するおそれがあるものと判断されたので、逮捕の要件を満たすものとして強制捜査へ及ぶべく、同年四月一二日鹿屋簡易裁判所裁判官の発布にかかる逮捕令状によつて、被告人を神奈川県の出稼ぎ先で逮捕し、身柄を同月一三日鹿屋警察署へ押送し、同月一五日同署留置場に勾留のうえで右容疑の取調を行うこととなつた。
(七) 詐欺事件捜査、公判の過程における殺人容疑の取調
前記詐欺事件により逮捕された被告人は四月一三日から同月二四日ころまでの間に該事件の取調を受け、同日付で鹿児島地方裁判所鹿屋支部に公訴提起されるに至つたが、右取調期間中に更に余罪の詐欺二件、銃砲刀剣類所持等取締法違反についても取調を受け、同年五月一六日付でその追起訴がなされた。当該事件は五月二四日、六月一三日の公判審理の後、同年七月四日の公判において懲役一年、三年間執行猶予の有罪判決がなされた。
ところで、被告人に対しては前記詐欺罪の動機等を聴取するかたわら、前述の利則、キヨ子殺害事件の容疑もあつたことから同事件犯行の日と目される一月一五日前後における被告人の足取り、立回り先等の取調を右捜査と平行してなしつつあつたが、被告人の供述は取調の度に供述が異なる始末で、しかし捜査官はその度にその裏付をとることに奔走した。被告人は、四月二四日に至つて始めて被害者方へ立寄つた事実を認めたが、五月三日には再びこれを否定するなどの供述の変遷であつて、同年七月二日には、まだ殺害の具体的な質問に入らないうちに、被告人自ら一月一五日に被害者宅へ立寄り、キヨ子ひとりを殺害した事実を具体的に供述した。そこで前記詐欺等の事件につき判決があつて、いつたん釈放後の同日、キヨ子殺害の被疑事実により被告人を逮捕し、同容疑の取調をなすに至つた。
(八) 被告人の自白調書は違法収集証拠か
弁護人は被告人の本件犯行の自白を内容とする司法警察員及び検察官に対する各供述調書は、被告人に対する違法な逮捕・勾留を利用して収集したものであるから証拠能力を否定すべきであると主張する。
ところでいわゆる別件逮捕が便法捜査として非難されるのは、いまだ証拠の揃つていない一方の事件について、被疑者を取調べる目的で、別件の逮捕・勾留による身柄拘束を利用して、右一方の事件を取調べる場合であつて、本件においては捜査官が始めから本件殺人事件の取調べに利用する目的又は意図をもつて、こと更に前記詐欺事件で被告人を逮捕・勾留し起訴したものと認めるに足りる事実はなく、かえつて、捜査官は、本件殺人事件の取調中に被告人に対する右詐欺事件が発生したため、そして被告人が神奈川県へ出向いていて、住居が安定せず又前記の如く罪証湮滅、逃亡のおそれもあつて、逮捕・勾留の理由及び必要性があつたので、いつたん同容疑によつて逮捕・勾留し、該事件の公訴を提起したというにすぎない。そして当時被告人に対しては前記の如く本件殺人事件の容疑が深まつている状況にあつて、かなりの資料も整つており、そこで右詐欺事件の取調に並行して本件殺人事件発生の日の前後の足取り、被害者との関係などを尋問する要領の取調をなしつつあつたところ被告人が自供したというもので、その間に各供述調書が作成されとしても、その取調がいまだ任意捜査の範囲内にとどまる限り、これが違法となるべき理由はなく、又これにより収集された証拠に基き被告人を逮捕・勾留したとしても、その手続が違法となるべきものでも、又便法捜査と非難されるべき筋合のものでもない。従つて捜査段階における証拠の違法収集を前提とする所論は採用することができない。
(九) 被告人供述の推移と自白内容
利則、キヨ子夫妻殺害事件の発生と同時に鹿屋警察署に該事件捜査本部が設けられ、鹿児島県警本部捜査一課より同課所属の浜ノ上仁之助警部もその応援を命じられて、三月二日ころから同捜査本部へ出向いて、被告人逮捕後は同警部が被告人取調の責任者となり、供述調書等作成の任にあたつたが、同人は四月一三日の取調の際は、被告人と被害者らとの関係と、鑑定に必要な被告人の陰毛の提出を求めるにとどめ、その後の取調において一月一五日前後のアリバイを中心に供述を求めることとした。四月二四日に至つて被告人は始めて被害者方へ同日立寄つたことを認めて、小倉肇と別れて時間が早かつたので利則方へ立寄つたところ、夫妻とも在宅していて、厩舎の小屋替えの話などをして午後一〇時半ころ同所を辞したが途中家に着くまで誰にも会つていない旨述べ、同月二六日は右立寄りの事実を記憶違いであると述べ、五月二日には再び立寄つたことは間違いない。利則とふたりで馬草を切るエンジンを修理しようとしたがだめだつたので座敷へ上り、お茶を飲んでいると福岡部落の山田実行さんが来たのでしばらくして帰つた旨述べた。そこでそのことを右山田に確めたところ、同日利則方へ出向いたことはないということだつた。そしてその旨を被告人に告げたところ、右は記憶違いで、利則の家を出たあとは自分の家近くの竹山で小持留保、徳満辰男のうちどちらかに会つてタバコの火を貰つた旨供述を訂正した。そこでその裏付を両名に求めたが両名ともこれを否定したので、その旨を被告人に問い質すと被告人は再び利則方へ立寄つた旨の供述は記憶違いで、一五日のことは何も憶えない旨述べた。六月四日に至つて被告人は三たび利則方へ立寄つた事実を認めて、利則方を尋ねるとキヨちやんがひとり膳棚のある部屋に座つていた。自分が挨拶するとキヨちやんはちようどよかところへ来てくれた。馬草を切らなならんけど発動機を起すことができんで困つている、ということだつた。自分が起そうとしたができなかつたので座敷へ入り、囲炉裏のある部屋で、向いあつて座り、世間話のあとで自分が「お前達はふたり暮しで子供がいないし、夫婦だつくさつて、ねがなつでよかどがい」と冗談を云うと、キヨ子は「子供は生みたくもない。利則が一人前であれば苦労もせんですむのだが、このような男と一生暮らすのかと思うと、浮気もしたくなる。おはんと寝ろうか」と自分に肉体関係を結ぶことを求めてきたので、自分は利則とは同級生であるし、もしこれがばれたらキヨちやんと妻は同郷の関係にもあるし、大変なことになると思い、そんなことはできないと話しているところへ、利則が単車で帰つて来たので、しばらく居て一〇時半ころ帰つた旨述べ、同月一一日の取調の際は、さきに述べた利則が帰つて来た旨の供述は記憶違いである。利則方へ行つて二〇分ころ経つて、自分は以前に自分が利則の家に行くのはキヨちやんに惚れて通うのだということを聞いていたので、その噂はキヨちやんから出たものと考え、噂になるようなことを話したかと尋ねたところ同女がこれを否定したので、そのことで口論となり、自分はかつとなつてキヨちやんの顔を一回殴つた。すると鼻血を出したので自分は謝つて帰つた旨述べ、その帰宅途中で、上高隈町のところで単車に乗つた長崎留雄と会つている。双方言葉は交さなかつたが、スピードがさほど出ていなかつたので長崎君だということははつきり云えます、と新たな事実を述べた。同月二四日の取調の際は利則の家へ行くとキヨ子がひとり居て、利則はテレビのことで上別府の方へ行つているということだつた。囲炉裏を囲んでキヨちやんと向きあつて座りお茶と梅干をもらつた。しばらくしてキヨちやんが奥の間に入つて、私に対し、ちよつと加勢してくれと云つたので行くと、奥の間にはすでに布団が敷いてあり、そしてキヨちやんが自分に関係するよう求めた。自分はいつたん断つたが誘惑に負け、同じ床に入つたところすぐに単車の音が聞えたので、飛び起きて囲炉裏のところに座つていると、利則が帰つてきて、キヨ子が帰りが遅いと怒つたことからふたりで口喧嘩をはじめた。そのあとのことは憶えない旨述べた。七月二日に至つて、被告人は犯行の一部自供を始めるようになつたが、その際は利則の家へ行つてしばらくしてキヨ子から六畳間に呼ばれ、「寝ろうや」と誘われたが、自分は利則と妻に対し申訳ないと思つて拒んだのです。そのあとでふたりで囲炉裏のある部屋へ戻つて話をしていると、午後九時ころ、利則が単車で帰つてきて、牛に草をやり、囲炉裏の部屋へ上つてきたが、しばらくお茶を飲んだあとで、急に自分に対し「お前はキヨ子とぢやつたつとが」と詰り、自分はそんな仲ではないと答えたが聞き入れようとせず、「必ず関係がある。世間の人もそういつている。」といいながら殴りかかつてきた。自分がこれを払いのけ利則を押しかえしたところ、利則は炊事場へ行つて野菜包丁をもつて自分に近寄り、打つてかかつてきた。自分はこれを手で払いのけていたがその際右手首のところに傷を負つた。そしてなおも切りかかつてきたので、自分の身が危いと思い囲炉裏端にあつた薪一本をもつてこれを払いながら奥の間の方に逃げたが、逃げきれなくなつたところで、利則と向き合つているとき、キヨ子が利則のすぐうしろに近寄り、手に持つていたマングワのコ(馬鍬の子)で利則の後頭部を殴り、そのひるんだ隙に同所から逃げ、夫婦喧嘩だから大したことにならないだろうと思つて、帰るため土間まで降りたとき、両名があいた、あいたと激しく殴りあう様子だつたので、これをひきとめるべく、中の間まで来たとき、キヨ子が血相をかえて大変なことになつたと訴えてきた。自分は咄嗟にキヨ子が利則を殺したものと察し、自分も共犯とされるだろうと考えると腹が立ち、なんでそのようなことをしたのかといいながら素手でキヨ子の顔を二、三回殴り、俺は帰るといつたところキヨ子が自分にすがつて「帰るな、私も殺してくれ」といつて両手を離さなかつた。みるとキヨ子も瞼の上を怪我しており、どうせ自分も共犯と思われるなら、いつそキヨ子を殺してわからないようにしようと心に決め、それで付近をみると横座の方にタオルがあつたので、これを取つてキヨ子のうしろに回り、前から首に巻き、うしろの方で交差し、これひねつて締めたところぐつたりとなつたので、脇の下に手を入れて表の間に運び、奥の間の納戸の方に敷かれていた敷布団の上に頭を褄縁の方に向けて寝かせた。キヨ子が持つていた馬鍬の子はキヨ子を殺す前に自分がキヨ子から取りあげておいた。馬鍬の子は長さ三〇センチくらいで根元の方が幅一センチくらい、先の方が三ミリくらいの矩形型のものです。又利則が持つていた包丁はキヨ子が先に炊事場に仕舞つてあつた。そのあとで自分は怖くなり炊事場の方から逃げて帰つたが、自分の着ていた洋服やズボンには血は付いていなかつたと思う。馬鍬の子は逃げるとき車に積んで帰つたが、あくる日は車になかつたので途中で落ちたものと思う旨述べ、自ら馬鍬の形状、利則、キヨ子の死体の位置、タオルのあつたところ、キヨ子の首を締めたところなどを克明に図示し、これを同日付調書に添付させた。
次いで七月三日には自分はこれまでの取調でキヨ子が利則を殺したあと自分に対し殺してくれと頼んだのでキヨ子を殺したと述べたが、本当は、キヨ子が生きておれば、この原因は、キヨ子と自分が関係があつたことにされるし、共犯とみられるので、いつそキヨ子を殺してやろうという気で殺したのです。私がこのように嘘を言つたのは自分の罪を少しでも軽くしてもらおうと思つたからです、と犯行の動機を自ら訂正する供述をなし、自分は良心の苛責に耐えられなくなつたので本当のことを話したのです。又事件を起したあとで自分が犯人と思われたくなかつたので捜査に来た中鶴巡査に対しては身内があやしいと話したこともある。又一月一七に被害者方へ出掛けたのも、自分が同日そこへ行つたことになれば事件を知らなかつたということの云訳ができると思つたからですと述べて、自白の動機、犯行隠秘の行動に出たことについてもこれを明らかにした。そうして七月一〇日には更めて自らの供述を整理したうえで脇方で籾を買い、同所を出たのが午後八時一五分ころで、途中小倉肇を自車に同乗させ、同人方付近まで送つて別れ、時間が少し早かつたので利則方へ立寄つたこと、利則は不在だつたがキヨ子に入るようにすすめられて囲炉裏のある部屋へ上つてしばらく雑談していたが、キヨ子が表の間に行き「清さんちよつと来てみやい」と呼ぶので行くと、そこに床が敷いてあり、キヨ子は掛布団を半分程あけて敷布団の上に座り、自分に対し「ねいが」と肉体関係を持つことを誘つたのでいつたん断つたが、キヨ子が則利はいつとき帰らんからねいがと強く誘つたのでつい誘惑に負けてキヨ子の右側の敷布団のうえにキヨ子と一緒に寝たのです。すると間もなく利則が帰つてきて、自分は「しまつた」と思つたが、どうしようもなかつたのでそのまま布団をあけ、敷布団のうえに上体を起していました。すると利則はものすごい剣幕で私達二人に対し「前から世間の人達が二人はあやしい関係にあるといつていたが本当ぢや、今夜は現場を押えたので申し開きはできないだろう」といいながら自分を素手で殴つてきました。そこで自分はここでは話ができない囲炉裏の方へ行こうといつて三人で囲炉裏のある部屋へ来たが、利則はそこでキヨ子に対し「いつもが、ぞつさらしが」(「かねてから、ふしだらな」の意)と怒鳴りながら殴つており、そこで自分がこれをとめながら「前から関係であつたわけではない、今寝ただけで、おかしなことはしていない。俺も悪かつた」と詫びたが、利則は半ば気違いのようになつてわめきながら、又自分に殴りかかつて来たので、自分は利則を押しかえしたこと、自分と利則が立ち向つているときキヨ子は利則の後方から同人に近づき「やめてくれ」といいざまいきなり利則の後頭部を持つていた金の棒で殴つたので、自分も利則の顔を素手で殴つたところ利則はふらふらと倒れた。それで自分は利則が持つていた野菜包丁を奪いつて炊事場に置いたこと、キヨ子が持つていた金の棒はモガンコというて田や畠を耕したあとをきれいにする際に、牛に引かせる農耕用の用具についている金具のことです。帰る途中で長崎君と行き逢つてからモガンコを捨てようと思つたが、そのときには途中で落ちたのか車の荷台にはありませんでした、と述べて更に従前の供述を自ら訂正している。七月一六日には、なお又これまでの供述には違う点があると断つたうえで、自分は七月一〇日の調べのときは、キヨ子と関係するため床に入つて間もなく利則が帰つて来たと述べたが、本当は寝床に入つてからキヨ子と関係するため着ていたズボンを下の方に降ろし、キヨ子の上に乗つたのです。キヨ子はズロースを脱いでいました。このように関係しているときに利則が帰つて来たのです。私はしまつたと思い寝床からはね起きて、ズボンを上にあげながら表の納戸側の障子の蔭に隠れたのです、と述べ、前述の右腕に受傷した点については利則から包丁をもぎ取り、その包丁を囲炉裏の脇の板張りのところに投げてから、横座のところに来てさきほど利則から右手首のところを斬られていたので、持つていた塵紙で手当をしました。その傷については妻にも気付かれないようにしていましたので、妻も気付いていないと思つていますと述べ、更に利則とキヨ子の喧嘩闘争の状況については、利則とキヨ子は表の間で喧嘩をしていたが、悲鳴はおもに利則の方からでした。そして静かになつたので、表の間へ行くとキヨ子が「殺してしまつた。あのようないきさつだつたので仕方がなかつた」と訴えていた。みるとキヨ子は右手にモガンコを持つていたので自分がそれをとりあげ、利則はどうなつたかと思つて表の間を覗くと、利則は床より褄縁側の方に頭を縁側に向けて俯せになつて倒れていたので、自分はキヨ子に対し「自分でやつたことは自分で始末せよ」というと、キヨ子は利則に布団を被せ、そして自分がさきに利則からとりあげ、板の間に投げてあつた包丁を炊事場に始末していた。なお又キヨ子殺害の態様については、キヨ子を殺したあとで自分も死のうと考え、キヨ子が持つていたモガンコと、横座にあつたタオルを持つてキヨ子を表の間に連れていき、持つていたモガンコでキヨ子の頭部を二、三回殴りました。するとキヨ子は寝床の端より納戸側の方に倒れました。それで倒れたところを首の前からうしろにタオルを回し、両端を交差してひねりました。私がこのようにタオルで締めたのは殴つたあとでキヨ子が生きかえつてはいけないと思つたからです、と述べ、始めてキヨ子と肉体関係に及んでいた、もしくは及ぼうとしていた時点で利則が帰つたこと、キヨ子が持つていたマングワノコでキヨ子を殴打したのちにタオルで首を締めたことなどの犯行の前後の模様を詳細に述べ、図示してこれを同調書に添付させている。同月一九日付供述調書においては、右一六日の取調べで申し足りない点があると断つたうえで、キヨ子とふたりで表の間の利則が倒れていたところに行くと利則は寝床より褄縁側に頭を縁側の方に向けて俯せになつて倒れており、みると首のところにタオルを垂らすようにしてかけていたので、生きがえらないようにと思つて利則の首にあつたタオルで首を締めました。そのあとでキヨ子が布団を被せたのですと述べ、七月二四日付検察官に対する供述調書においても、キヨ子と一緒に布団に入り、自分は陰茎を出してキヨ子の上に乗つたが、そのとき表の入口の戸が開く音がして利則が帰つて来た。利則はすぐに表の間に踏みこんで来ることはせず、囲炉裏のある部屋で何かしているようだつたが、キヨ子が出ていくと、清が来ているだろうと問いつめ殴る気配がした旨述べたほかは前示一六日、一九日付司法警察員に対する各供述調書と同旨の供述をなし、そして特に、同調書の中で、自白するに至つた心境を「事件後私は大変なことをしたと後悔し、悔まない日はありませんでした。家族のことなどを考え、自分に捜査が向けられるのが怖くて、犯人は身内の者だといつたりして捜査の目を他へ向けさせようとしたのもそのためです。今まで色々言つてきましたが、今日申上げたことがすべて事実です。自分でやつたことは自分で責任をとるべきであると反省し、真実を申上げているのです」と述べて自ら供述を締め括つている。
三 自白の真実性について
被告人は右各供述調書はいずれも捜査官の強制、誘導によるもので、真実を述べたものではないと述べ、又弁護人も右各供述には一貫性がなく、他の証拠による裏付けも乏しく、内容にも極めて不自然な点があり、真実性がないと主張する。そこで本件自白の主要な部分につき、他の証拠と対比し、その真実性を検討するに
(一) 一月一五日の被告人の足どり
右供述調書中の、被告人が一月一五日午後八時ころ、上別府部落の脇かづ子方でプロレステレビ中継を見終つて、自己が運転して来た軽貨物車を運転し、同所から県道を通つて帰宅すべく、同部落公民館を過ぎ、新原清則方前墓場のところまで来たとき、小倉肇に会い、同人を自車に同乗させ、折尾親盛方近くの県道から小倉方へ曲る別れ道で、同人を下車させたのが同八時過ぎであつたこと、当時右軽貨物車の後部荷台には叺入りの穀物一俵が積んであつたことは、原審証人脇かづ子、同小倉肇の各供述記載及び小倉肇の司法警察員及び検察官に対する各供述調書の供述内容と完全に符合し、又被告人が右小倉と別れて、該県道を通つて帰宅中午後一〇時ころ鹿屋市と曽於郡の郡境付近まで来たとき、単車に乗り、被告人の反対方向から進行してきた上高隈町の友人長崎留雄とすれ違つたことは、証人長崎留雄の原審公判廷における供述及び同人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書の供述内容と符合する。このことは被告人が当日の行動に関して正確に記憶を有していることを裏付けるものであり、従つてその供述の信用性が高いことを示すものである。
(二) 利則方でのキヨ子との対話内容と被告人の受傷原因
被告人は右小倉と別れての帰途、時間が早かつたので利則方へ立寄り、キヨ子から頼まれて馬草を切るエンジンを始動しようと務めた旨供述しているが、被害者方別棟厩舎には馬草切断用の発動機があることが二月二〇日付司法警察員作成の実況見分調書によつて認められる。又キヨ子が厩舎の小屋替えを明日から始めることになつていて大工が来ると話していた旨の供述は、原審証人新牛込正夫、同上之段一雄の供述記載及び前示実況見分調書に、又キヨ子が利則はテレビのことで上別府の方へ行つていると話していたとの供述は原審証人久留ウメの供述記載とそれぞれ符合する。更に自分は、利則から包丁で傷つけられた旨の供述は、被告人の身体鑑定にあたつた城哲男の被告人の右前腕伸側関節において拇指側より<省略>の部位に上下方向に長さ五センチの線状の外傷瘢痕を認める。右は恐らく鋭利な刀先刀尖にて擦過されたものと考えられる。右切創痕は比較的新しいものである」との鑑定報告書に符合するところで被告人は右は昭和四三年ころ利則を単車に同乗させて走行中に転倒し、土手の竹の切株で受傷したものであると弁明するが、同人の供述調書中の「受傷後、横座のところに来て塵紙で手当をした(司法警察員に対する七月一〇日付供述調書)、傷は右手首のところにありましたが医者にはかかつていません。悪いことをしているので妻にも話していません、傷あとは残つています(同七月三日付供述調書)、右手首の傷を塵紙で血止めしたところ手にひつついていた(同七月二五日付供述調書)旨述べて受傷後の状況を詳細に、しかも三回にわたつて供述していること及び右鑑定結果に照らし、たやすく信用できない。従つて右いずれの場合も被告人の前記自白を裏付ける証拠であり、被告人の供述の信用性が高いことを示すものといえる。
(三) 被害者宅内部の構造、造作について
被告人は被害者方の位置、構造、家屋内の状況等について、本件自白で「利則の家は、私が入つた炊事場からみると向つて左側に囲炉裏があり、囲炉裏の間は畳敷と板間になつており、その左端にいろんな道具を入れる膳棚がある。囲炉裏の間の右側に小縁が続いた間があり、そこにテレビが置いてあり、電気炬燵もあつた。この内座の奥が床の間で、私は最初囲炉裏のある部屋でキヨ子と向いあつて、囲炉裏端に座りました。表座敷には寝床が敷いてあつた。利則に追いつめられて表の間に来たが逃げられないと思つたので納戸側に立つて利則と向いあつたのです。このときの私の位置は寝床の端より納戸側のところで、利則は私に向つて斬りつけるような格好で構えたのです」と述べている。以上の供述内容は、前掲実況見分調書、原審裁判所の昭和四八年一二月一三日付、同五〇年七月五日付各検証調書及び原審証人折尾長吉の供述記載等によつて認められる犯行当時の被害者居宅内外の状況と詳細にわたり符号していて、被告人は取調警察官に対し、自ら図示して犯行前後の自己及び被害者らの位置関係まで明らかにして、経験者でなければよく述べ得ない事項について極めて正確に表現しており、部屋内の状況、フトン、犯行に使つたタオルの位置等に関する自白は本件自白の真実性を裏書きするものであり、被告人のいい加減の供述が偶然事実に合致したものとは到底考えられない。
(四) 被害者宅へ出向いた時間、キヨ子の着衣及び車轍痕について
被告人は小倉と別れたあとの行動について供述するなかで、「利則君の家へ立寄つてみようと思い、車を県道から利則方木戸口にそのまま入れて六メートルくらい入つたところで止め、キヨ子から中へ入るようにいわれて、炊事場出入口の方から入つた。そのころの時間は午後八時二〇分ころだつた。キヨ子の着衣は仕事着ではなく、ふだん着を着ていたように思う。キヨ子がお茶とお茶請けに梅干を出した」旨述べており、右の供述を他の証拠と対比してみると、利則方に出向いた時間は前示原審証人小倉の供述記載中の被告人と別れたのは午後八時過であつたとの供述に符合し、軽貨物車を止めたことは一月二五日付司法警察員作成の「足跡及び車轍こん採取状況報告」及び寺田正義作成の鑑定書に符合し、キヨ子の着衣は二月二〇日付司法警察員作成の実況見分調書中の状況欄及び城哲男作成の二月五日付鑑定書中着衣の状況欄に符合し、キヨ子が囲炉裏のある部屋で被告人にお茶を出したとの供述部分は前示実況見分調書に符合するから、これらの諸点も前同様被告人の前記自白を裏付けるものである。
(五) 兇器について
本件の兇器について、被告人は七月二日の捜査官の取調で、始めて「モガンコ」であることを述べたが、その供述の要旨は前記二の(九)項で述べたとおりであつて、被告人は七月二日付司法警察員に対する同調書中で、「只今そのモガンコの図面を書きましたので提出致します」と述べて、自ら馬鍬の絵を書いて図示し、同七月一〇日付調書においてはその用途を述べ、馬鍬の形状、そのうちの兇器となつた部分を特定して説明を加えており、たまたま同兇器が発見できなかつたことから前示原審証人浜ノ上が被害者宅炊事場外側に、右図示にかかる馬鍬と同一形状のものがあつたので、その金具(長さ三三、七センチメートル、重さ三〇〇グラムの鉄製で、その一端がほぼ矩形、他の一端が鋭となつているもの)の一本を外して持つてきて、これを被告人に示したところ、同一形状のものであることを認めたのでこれを押収のうえ領置したものである(福岡高等裁判所昭和五二年押第四号)。即ち被告人が自ら兇器について供述するところがなければ本件兇器の如き特殊な形状の兇器については捜査官においてもこれを覚知し得なかつたものと考えるのが相当である。そして右兇器については、鑑定人矢野勇雄、同牧角三郎(昭和四八年二月二二日付)作成の各鑑定書によつて、これが被害者両名の傷害部位の成傷器となり得ることも明らかにされているのであるから、被告人の右自白は客観的事情となんら矛盾するものでもない。弁護人は右馬鍬の子(モガンコ)は本件で最も重要な物的証拠であり、これが発見されないのは、被告人の供述が真実でないからにほかならないと主張するが、被告人は「右兇器は犯行後、自車の後部荷台に投げ入れて、帰宅途中捨てようと思つたが、あとでみると見つからなかつた」旨述べており、八月四日付司法警察員作成の「被疑者舩迫清が折尾利則夫妻を殺害した兇器(馬鍬の子)が当時被疑者が所有していた軽四輪貨物自動車より落下するか否かの実験」と題する書面によると、該車の後部荷台は、腐蝕脱落のため三か所に穴があつて、右実験の結果では、進行中の車体の震動でこれが地上(同所は山林・谷・藪などのある山道ともいうべき非舗装道路)に落下することのあることが記述されていて、その可能性を否定できないこと、又同馬鍬の子は、当初キヨ子がこれを持出して利則を殴打した際使用したものであるから、キヨ子が死亡してその供述がとれない以上、その出所を明らかにすることも困難である。捜査官は被告人の右自白に基き付近一帯を鋭意捜索に努めたけれども遂に発見するに至らなかつたというのであるから、右発見されない一時をもつて、兇器に関する被告人の右自白の真実性を否定することは相当でない。
(六) 犯行現場における血液飛散状況と被告人のかえり血の関係
弁護人は、本件現場における血液の飛散状況から、被告人が本件犯行を行つたとするならばその着衣、身体にかえり血を受け、血痕が付着すべきであり、被告人が一滴の血液の飛沫も浴びていないということは考えられない。従つて右事実が証拠上明らかにされない本件にあつては、被告人の自白には信実性がないと主張する。
ところで、鑑定人牧角三郎作成の昭和四八年二月二二日付、同五〇年一月三〇日付、同年二月六日付各鑑定書、二月五日付、六日付鑑定人城哲男作成の各鑑定書及び原審証人牧角三郎の供述記載を総合すると、犯行現場における血痕付着の状況については、二の(三)で記述したところであつて、同血痕の血液型を厳密に鑑定したところによると右はいずれもB型の反応を呈するものばかりであつたというのである。通常、血液が飛散するのは細少の動脈断端から噴出する場合か、或いは血のついた物体を振りまわす場合又は開放性の傷口とくに既に血の溜つている傷口に再び打撃を加える場合などにみられるものと考えられる。そして、各場合の飛散した血がどのような機会に生じたものかは、血痕の形状のみからは判定できないのであるから、その場合の出血源としての創傷部位や、性状、兇器の種類等を総合して考察しなければならないことになる。まず被害者利則の創傷部位をみると頭部には長さ四センチの黒髪が密生し、同所に少なくとも八個以上と推測される複雑な創傷があり、創傷の創縁はいずれも不正、創角も不正、頂部近くに直線状の水平に走り、骨膜に達する挫裂創があり、同所はクモの巣様の形をし、創底に骨折を認め、頭蓋骨は頭頂部が複雑に骨折、破砕して、左右の頭頂骨にひろがり、脳は表在血管が充血し、軟膜下出血が著しい。左後頭葉、右頭頂葉に実質間の出血を認めるというのである。一方キヨ子の創傷部位をみると、頭部には長さ一三センチメートル内外の黒髪が密生し、左側頭部、耳介後方に二個の創傷があつて、第一創は創底が骨膜に達するも創内には組織片が架橋状に残り、第二創とともに挫裂創、後頭部、顔面にも創傷を認め、同じく挫裂創、創縁はいずれも不正で、頭皮内面において外表の挫裂創に一致して、頭皮間に出血を認めるも骨折は認められないというのである。そして前示のように被害者両名の右各創傷は「モガンコ」という硬固な鈍体の角稜や幅の狭い棒状部分の打撃によつて形成され得るものというのであるから、これにより考えると利則の頭頂部の創口は、頭髪(長さ四センチメートル)に覆われてはいるが、創面創底が露出しており、そしてこの場合考えられる頭皮下の動脈分枝の損傷離断はもちろん中硬膜動脈分枝もあるであろうからこの場合、露出した創口から多量の出血が生じ、又動脈の博動に伴つて血液が相当の勢をもつて外方へ飛散することが容易に考えられる。そして既に出血の始つている創口部位に繰り返し打撃を加えれば、その血液の飛び撥ねも生じ得るし、打撃の用いられた棒状鈍器に付着した血液も頻回の打撃行為の際飛散し得るものである。次にキヨ子の右創傷をみると、左耳介の弁状創以外の四個は頭髪(長さ一三センチ)にすべて覆われる部位にあつて、左耳介の弁状創が頭髪に覆われていないとするも、同所には微細な血管しか分布していないことから血液が飛散し得るところではない。そして同四個の創はいずれも小さな創口であつて、創底が骨膜に達していたという部分は左耳後方の長さ二、三センチメートルの創だけである。なお頭蓋骨に骨折もなかつたというのであるから右各創口から血液が噴出飛散することは考えられず、血液が多少噴出したとしても創口を覆う頭髪に遮られて外方へ飛散することは到底考えられないということになる。そうすると、本件犯行現場の床の間、壁板、障子、天井などの一部にキヨ子の頭部、顔面の創傷から出た血液が飛散、付着する可能性は極めて少ないことがわかる。このことの裏付となるのがB型(利則の血液型)の血液型付着である。そして、キヨ子の着衣の左右の袖口近くや、前身頃、左前身頃の袖近く並びに背面などの一部にはB型と認められる血液型の反応が認められたというのであるから、これらは被告人の前記自白中の「キヨ子が利則の後方からその頭部をモガンコで殴打した。ふたりはあいたあいたといいながら激しく殴りあつている様子だつた。悲鳴はおもに利則の方からでした」旨の供述部分に符合し、そしてその際の利則の傷口より飛び散つた血液、兇器を振りあげ、振りおろす際の兇器から撥ね散る血液が犯行現場及びキヨ子の着衣にB型の血痕を付着せしめたものと判断するのが相当である。被告人がその後にキヨ子に対し、同兇器をもつて打撃を加えたことも被告人の自白するところであるが、右鑑定結果から窺える右打撃の程度は、キヨ子が利則に加えた程度よりはるかに軽く、そして同じ部位に重ねて打撃を加えていないから、キヨ子の右受傷部位から血液が飛び散ることはなかつたし、出血があつたとしても右頭髪のため飛散するに至らなかつたものと考えられ、従つて被告人が利則に対し右兇器をもつて直接殴りかかつたことを認めるべき証拠の存しない本件にあつては、被告人がかえり血を受ける蓋然性は極めて少なかつたといわなければならない。又その後に被告人が両名をタオルで首を扼した事実があるとするも、すでに両名とも俯せ或は横になつて倒れ、仮死状態にあつたというのであるから、両名の後方からタオルの両先端をもつて首を扼す際の過程で、被告人の身体、着衣に血痕が付着しなかつたとしても特に不自然であるということもできない。従つてこれを理由に被告人の自白の真実性を論難することは相当でない。
(七) 犯行の動機について
被告人がキヨ子を殺害するに至つた動機については二の(九)の被告人の供述の推移の項で判示したが、被告人は当初キヨ子が帰ろうとする自分にすがつて「帰るな、私も殺してくれ」と頼みました。自分もいつたん帰ろうとしたが、喧喧のはじまりは自分がやつたことであり、キヨ子も取調を受ければ自分と一諸に利則を殺したというだろう。そうすれば自分も一諸に刑を受けることになる。キヨ子が殺してくれというのだからいつそ殺した方があとくされがなくなるだろうと心に決め」と供述した(七月二日付司法警察員に対する供述調書)が、その後の取調で「本当はキヨ子が生きておればこの原因がキヨ子と自分が関係あつたように言われるし、共犯とみられるので、いつそキヨ子を殺してやろうという気で殺したのです。キヨ子から頼まれて殺したのではありません」と自ら供述を改め(七月三日付同調書)て、以後は供述をかえていない。又利則を殺害した動機については七月一九日に始めて自白したが、「利則は横向きの格好で俯せになつて、動かなかつたので、これは大変なことになつたと思つたがどうすることもできず、みると利則は首のところにタオルをかけていたので、利則が生きかえらないようにと思つてそのタオルで利則の首を締めました」と述べ、検察官に対する供述調書においては「私は利則が生きかえれば当然共犯とされるだろうと考え、利則にとどめをさし、完全に殺すことを決意したのです」と述べており、右供述間には若干の供述の差異があるが、本件は殺人事件であつて、事案が重大であれば、それだけになるべく刑責を免れ、もしくは軽減させたいと思うのが通常と思われ、被告人自身そのことを右七月三日付供述調書のなかで述べている。従つてこの種事件においては供述の移りかわりがあるような形を呈するのはむしろ自然なことと思料される。被告人は、本件捜査の当初は、アリバイを主張するなどして犯行を全面的に否認していたものであるから、否認から自供へ移る過程の供述として、むしろ真実性があり、そして右犯行の動機を含む前示被告人の捜査官に対する供述調書中にみる極端なまでの供述の推移、原審及び当公判廷を通じて窺われるところの些細なことに非常に興奮しやすく、意にそわぬと忽ち激昂しやすいという性格等に徴すれば、被告人が当時の状況下で各犯行を発意し、実行したことに不自然さはない。
これらを総合すれば、右各自白の真実性はこれを肯認するに十分である。
四 補強証拠
(一) キヨ子の陰部から採取された陰毛について
通常、捜査の過程で、変死者が女性の場合、陰部からその付着物を採取することは一般に行われるところで、キヨ子についても、事件発覚と同時に出向いた鹿児島県警鑑識課員大迫忠雄によつて陰部にガーゼを覆い、挾みこんで行う方法での付着物採取が行われた。その結果三本の毛が採取され押収された(昭和四四年原裁判所押第八六号の五)が、鑑識の結果三本のうちの二本はキヨ子の陰毛と類似し、うち一本がその形状、血液型とも異ることが明らかにされた。そこで、前記捜査本部においては、四月一三日に被告人から提出された被告人の陰毛一五本とともに右三本を更めて警視庁科学警察研究所へ送付し、その比較対照のための鑑定を求めたところ、「キヨ子の陰部に付着の毛三本はいずれもヒト陰毛で、右三本のうち長い一本(以下「甲」の毛という)は被告人の陰毛に極めて類似し、ほゞ同一人に由来するものと推定される。短い毛の二本と被告人の陰毛とは一致しない。甲の毛の血液型はB型、短い毛二本はA型、被告人の陰毛の血液型はB型である」(警視庁科学警察研究所技官須藤武雄作成の昭和四八年九月二七日付鑑定書)旨の鑑定結果が得られた。そして、右鑑定書、原審鑑定人須藤武雄の供述記載、原審証人須藤武雄に対する受命裁判官の尋問調書による右甲の毛には被告人の陰毛に類似のすなわち「(1)小皮に発生頻度の極めて稀な亀裂が存する。(2)小皮の厚さは一般の陰毛に比較して割合に薄い性状を有し、(3)色素顆粒の分布は毛根側に少なく、毛幹より毛先に移行するに従い多くなつている。(4)陰毛として割合に長い性状を有する。(5)血液型は甲、被告人の陰毛ともB型である)という特徴があつて、そしてさらにはX線マイクロアナライザーによる塩素やカルシウムの分析結果においても甲と被告人の陰毛双方が類似する結果が得られたというのである。そうすると甲の毛は被告人に由来する陰毛であると推定するのが相当であり(鑑定人四方一郎作成の同年一〇月三一日付鑑定書の鑑定結果も基本的には結論を異にするものではない)、キヨ子の陰部から被告人に由来する陰毛と推定される毛一本が発見されたのであるから、右の結果は、被告人の前記自白中本件犯行直前にキヨ子と同衾即ち「キヨ子と関係するため自分が着ていたズボンを下におろし、キヨ子の上に乗つたのです。キヨ子はズロースを脱いでいました(七月一〇日付司法警察員に対する供述調書)、キヨ子の誘惑に負け、ズボンをずり下げ布団に入り、陰茎を出してキヨ子の上に乗つた(七月二四日付検察官に対する供述調書)旨の供述の重要な部分で符合することが明らかで、強力な補強証拠というべく、その際の被告人の陰毛が、キヨ子の陰毛に付着したものと推定できる。弁護人は、右甲の毛は被告人が四月一三日に提出した陰毛の一本と捜査官が故意にすりかえたものであるから右甲の毛一本をもつて、被告人と本件犯行を結びつけることは不当であると主張する。しかしながら右甲の毛は前段に判示した如く事件発覚当日である一月一八日に、右経緯及び要領でキヨ子の陰部から採取され、直ちにこれを県警本部に搬入し、同月二一日から鑑定に付して(五月三〇日付鑑定鑑別結果についてと題する書面中受理年月日欄)いるものであつて、鑑識に続く同鑑定の結果五月三〇日に甲の毛は他の二本のそれと長さ、髄質、光沢、血液型から異種類のものであるということが判明した。そこで更めて、その後に被告人から提出されていた陰毛と右甲の陰毛が類似するかについてこれを警庁視科学警察研究所に送付し、鑑定せしめた(七月一七日付警察庁技官須藤武雄作成の鑑定書)ものであることが明らかであるから、右甲の陰毛が被告人の陰毛とすりかえられるべき機会はない。右主張は理由がない。
(二) 未決監における被告人の言動
被告人は七月五日鹿屋警察署から鹿児島県警察へ移監されたが、七月六日午後三時ころ同署員岸田武千代が留置場勤務をしていたところ、同人から声をかけたわけでもないのに、被告人がここの飯は鹿屋署の飯よりまずい、どうしてこんなにまずいのだろうか、他の房のものも飯がまずいので食べていない。と述べたうえで「自分は今度の事件で三か月以上も刑事から調べられた。二人殺したら死刑か無期になるだろう。僕はひとりしか殺していない。七年くらいは行くだろう。殺すときは手で締めた。それから男は同級生で、女は肝属郡串良町細山田部落のはずれの道路上の家で、妻とはよく知りあいの間柄である。死んだ女は何回も出戻りをして子供がいない」と述べたので、同人はその旨を動静簿に記入して報告書を作成した。又同月一一日には、同署員朝山寿三が留置場勤務で二階の担当台にいたところ一階の房の留置人が互いに話をしていたのでこれを注意すべく一階に降りて被告人を含む全員に対しみだりに隣房者と話してはいけないと注意した。すると被告人が同人に向つて「自分は鹿児島に来て調べを受けているが、自分のいうことと警察の言うことがくい違つているので調書作成に入つていない。四か月くらい調べを受けているが、自分の自供としては、女が主人を殺したので女を生かしておくと自分が疑われると、それで自分が殺したようになつている。しかし主人は絶対殺していない。刑事が調べるとおりすらすら話すと死刑か無期、七年以上の刑になるだろう。それから自分の妻が二時間の自分の空白を話しているお蔭でこんな留置場で苦しみを受けている」と述べたので、同人はその旨を動静簿に記入した。以上の事実は原審証人岸田武千代、同朝山寿三の各供述記載により認められる。ところで、当時は未だ捜査官による取調が継続している期間中で、右言動が取調官の知るところとなれば、明らかに自己に不利な証拠とされるであろうことは通常の常識をもつて理解し得ることで、右は単なる勘違い、過誤などとして無視し得るものではない。そして被告人は七月五日に鹿屋警察署鑑識課において自らタオルを持つて被害者らを扼したときの状況を再現し、これを捜査官に写真撮影させた(原審証人下園菊雄の供述記載)というもので右それぞれの言動が時間的に符合しており、その間の事情を計ることができる。被告人は当公判廷において、弁護人の質問に答えて「私は留置場の中でそのようなことを話したことはなく、これは起訴状が来たときに岸田が「お前はこういう風にやつたのか」といいますので、いやそうじやないのだということを言つたのです。これは井原という警察官と武田の共謀だと思います」と弁解している。ところで本件の起訴状が被告人に対し送達されたのは右七月五日より二二日を経過した七月二六日であることが同日付鹿児島地方裁判所廷吏中尾吉春作成の送達報告書によつて明らかであるから被告人の右弁解が理由がないことは明らかである。
(三) 一月一五日の帰途路上で行き違つた者が長崎留雄であることの確認
前記二の(九)で判示したように被告人は六月一一日の捜査官の取調の際、被害者方へ立寄つての帰途、鹿屋市の境界付近で単車に乗つた長崎留雄と行きあつた旨供述した。ところで長崎留雄は、同月九日捜査官による付近居住者への聞込み捜査の際「一月一五日午後九時すぎごろ百引を出発して帰路についたが同九時五〇分ころ鹿屋市と曽於郡の郡境付近で、ものすごい音のする軽四貨物車と行きあつた。軽四輪であることはわかつたが運転者が被告人であることは知らなかつた」旨述べ、又捜査官に対しても自分は運転者の名前を明らかにしていない旨原審公判廷において述べている(原審証人長崎留雄の供述記載及び同人の司法警察員に対する供述調書)。すなわち右により明らかなとおり、長崎から被告人と出会つたことの供述を得ていない捜査官に対し、被告人が自ら進んでその際の単車の選転者が長崎であることを供述していることになり、右は被告人が同時刻ころ同所を通過したことの明らかな根拠である。
(四) 一月一五日午後八時すぎ脇かづ子方を出発したあとの被告人の足どりについて、原審第一回公判廷における被告人の供述
被告人は原審第一回公判廷において「一月一五日に利則方に行きましたら夫婦とも殺されておりました。自分が疑われると思い、届出をしなかつたのです」と述べたので、裁判長が争点整理の必要から、本件起訴状における犯罪事実について右陳述の関連で質問を試みたところ、被告人は「死んでいたということは家の外から利則と呼び二〇分くらい待つていたのですが、何の返事もなかつたので家に入つてみようと思い、表から入つてみたら寝ているようでした。それで又呼んだのですが、返事がないので横に揺すつてみたら死んでいることがわかりました。それで恐くなつてすぐそこを出ました」旨供述している。ところで司法警察員作成の七月九日付捜査報告書によると鹿屋市高隈町五四五番地脇かづ子方から被告人宅居宅までの距離は約三、八〇〇メートルであつて、前掲証拠から被告人の足どりに従い、その道程をみると、被告人は右脇かづ子方でプロレスのテレビ中継を見終つた午後八時すぎ、同所で籾一俵を買入れ、これを自己が運転してきた軽貨物車に積んで同所を出発し、前記県道を通り、同所から約一二〇メートル進行した新原方東側墓下の路上で小倉肇を乗車させ、同人を約七五〇メートル進行した付近で降車させ、午後一〇時三〇分ころ帰宅したというもので、右についてはその日が一五日であることを除き被告人自身争つていない。そうすると被告人は右区間を二時間三〇分要して帰宅したことになり、いま被告人が該車を毎時約三〇キロの速度で進行させたと考える場合、その所要時間は約九分を要するにとどまるから、その間に被告人が他に立寄つたところがない限り、被告人は少なくとも午後八時一〇分過ごろには帰宅していなければならないのに被告人はその間の事情を明らかにしていない。そして前記四の(三)で判示した如く、午後九時五〇分ころには鹿屋市の境界付近で長崎留雄と行きあつたというものであるから、その経過距離から時間に脈絡を求めようとする場合、九時三〇分という時間を被告人が被害者宅に出向いた時間と判断するには疑問がないわけではないが、しかし右の被害者方へ出向いた旨の供述部分はそれが原審第一回公判廷において犯行を否認する供述に続いてなされた点で(たとえ同供述が同第六回公判廷に至つて取消されたとはいえ)、右は前述の犯行時間と推定される同時刻ころ、被告人が同犯行現場へ出向いたことの重要な証拠として評価されなければならないもので、すなわち、被告人が脇かづ子方を出発したあとの足どりを認定するうえの証拠の総合評価上欠かせないものというべく、被告人の前記自白の真実性を補強するものである。
(五) ポリグラフ検査の経過及び結果について
被告人が前記容疑で逮捕され、四月一三日に鹿屋警察署に身柄押送されたことはさきに判示したが、同一四日、同署においては、被告人に対する前記殺人容疑もあつたことから、これについての質問を試みるべく、同人に対しその旨を告げたうえで、ポリグラフ(同時記録器)を使用して検査をするので差支えなければ承諾書を書くように指示した。これに対し被告人が同書を提出したので、同日午前一一時三七分から同午後一時二五分までの間に検査者清水幸男がTRP―Ⅰ型ポリグラフを使用してZC検査(直接質問法)による検査をなしたところ、被告人は質問<5>「あなたは利則さん夫婦を殺した犯人を確実に知つていますか」、質問<7>「あなたは利則さん夫婦の首を締めましたか」との各質問に対し、それぞれ「いいえ」と答えたが、その際の検査結果にそれぞれ特異反応を示し、又
その他POT検査(緊張最高点質問法)、追求質問検査に際しても、それぞれ特異反応を示したことが四月二一日付鹿児島県警察刑事部鑑識課検査者清水幸男作成のポリグラフ検査回答書によつて認められる。
ところで右回答書は被告人側の証拠とすることに同意があつて取調べられたものであつて、一般にポリグラフ検査は検査官の発する質問に反応して被検査者の示す呼吸波運動、皮膚電気反射及び心脈波を同時に記録し、その結果を検討して被検査者の有意識ないし供述の真偽を判定する一種の心理検査といわれ、その検査の経過及び結果を記載した書面も証拠能力を有するものであるから、右の反応結果も他の証拠と相俟つて事実認定の用に供し得るものである。
五 被告人主張のアリバイについて
被告人は上申書と題する書面において一月一五日は午後六時三〇分ころ籾を買うため軽貨物車を運転して脇かづ子方へ行き、同所でしばらくテレビを見たりして午後八時一〇分ころ同人方を辞し、その後竹伐り人夫のことで脇別府政義方へ行き、同人方の庭に該車を置いて同用件で山下ミカ方に寄り、同所から脇別府方へ戻つて該車を運転して吉原君子方を訪ね、同所を午後九時五〇分ころ辞して帰途につき、午後一〇時ころ自宅に戻つて就寝したから本件犯行当時現場には行つていない旨アリバイを主張し、原審証人舩迫ヨシの供述記載中にはこれに副う供述部分もないわけではないが、原審証人脇かづ子の供述記載によると、被告人が同人方でプロレスのテレビ中継放送を見終り、籾一俵を軽貨物車に積んで同所を出発したのは一月一五日北後八時すぎであることについては、同日が成人の日で、NHKテレビで青年の主張が放映されていた日であることから明確に覚えている旨同人は証言しており、そして被告人が竹伐り人夫はいないだろうかといつて来た日はそれから二日後の一七日の夕方であつたというのであり、同証人脇別府政義、同脇別府ツギ両名の供述によると被告人が車を置かしてくれといつて尋ねて来た日は一月一七日の晩で、一五日の晩被告人が同人ら方を尋ねて来たことはない旨述べており、同証人山下みかの供述記載によると、被告人は一月一七日午後六時すぎころ竹伐りの手伝いに来てくれないかと尋ねて来た。被告人が自分の家を尋ねて来たのはその日の一回で、一五日は来ていない。又被告人が尋ねて来ているとき吉田正がやつて来て被告人に対し畳を乗せてくれないかと話していた旨述べており、同証人吉原君子の供述記載によると、一月一七日、被告人は山下ミカの所から来たといつて竹伐りに行つてくれないかと尋ねて来たことはあるが、一月一五日は小正月であり、自分は一日中家に居たが被告人が尋ねて来たことはない旨述べ、右各証人とも被告人のアリバイを否定しており、また同証人吉田正の供述記載によると、「脇別府政義方に他所から買つた畳を預けておいたが、たまたま一月一七日に同所へ寄つたところ、被告人の軽貨物車が庭に置いてあり、よい機会なので被告人に頼んで運んでもらおうと思つて山下ミカ方へ行き、その旨を被告人に頼んだところ、被告人は「これから吉原君子方へ回らなければならないので運ぶことができない」と断られた旨述べており、右山下、吉原の証言に符合してその日が一七日であることを裏付けている。然るところ弁護人及び被告人は右各証人の証言は、いずれも警察官が事前に各証人宅を戸別に訪問して供述を教唆した結果得られたもので信用するに足りない旨主張する。なるほど警察官が同証人ら宅を訪問していることは原判示証拠により認められるところであるが、右は事件の関わりあいを恐れて出廷を拒んでいた同人らに対し、出廷を促すために訪問したというにすぎないもので、特定の供述を促す言動は全くなかつたことについては同証人らが一致して供述するところであり、その信用性を疑うべき事情はなんら見出すことができない、もつとも前記舩迫ヨシの供述記載中には右主張に副う供述をしているが、当審において取調べた被告人の拘置所から同女宛に送つた書簡の書信表によれば被告人は同女に対し威迫とも目される内容の即ち「お前はおぼえてよいところは覚えてなく、いらんところは覚えているね、人事(他人事の意)のように言つているが、それでよいと思うか、お前がそのようなことならそれでもよいが」(一〇月七日付書信表)、今までのことをよく考えてみれば、お前が先にこのようににしたといつてもよいからね、警察にどのようなことを話しているかよく考えて返事せよ。私がこのようにされて喜んでいるかも知れないが今に見ておれ」(一一月二二日付書信表)旨の記載があるから、同人が被告人の妻という身分関係のもとでは、当時公正な供述を期待できない立場にあつたものといわざるを得ず、右供述には信をおき難い。他にこれを認めるに足りる証拠はない。
結局弁護人、被告人の右アリバイの主張は被告人の一月一七日の午後六時以降の行動を同月一五日の行動であるとして述べているものと考えられるから右主張は採用できない。
六 結語
以上説示のとおり、原判示事実に関する原判決挙示の被告人の自白は十分に信用し得べきものであり、且つその余の挙示の関係証拠は右自白を十分補強するに足りるものである。従つて原判決がその理由中の(本件犯行に至る経緯)項で「被告人が昭和四四年一月一五日北後八時過ぎ頃利則方でしばらく同人と茶飲み話でもして帰ろうと考えて同人方に立寄つた際右利則ら夫婦が六畳間に床をとつて就寝しようとしているところであり、日頃から心中ひそかにキヨ子の異性関係を疑わなかつたでもなかつた右利則において、ここにその場の雰囲気からキヨ子がさきに被告人と通じたのではないかと疑を深め、キヨ子や被告人に種々詰め寄ることとなつた」旨判示する部分は、前記被告人が自白しているとおり「被告人が昭和四四年一月一五日午後八時過ぎころ利則方でしばらく同人と茶飲み話でもして帰ろうと考えて、同人方に立寄つた際利則は不在であり、その妻キヨ子が留守居をしており、被告人は誘われて同家囲炉裏のある部屋に上つて雑談をしていたが、しばらくして同女が表の間六畳の布団を敷いた部屋に被告人を誘い入れ、肉体関係を求められるに及び、被告人はいつたんこれを断つたが同女が強いて誘つたのでこれに応ずるべく、同所布団に入つて同衾中、折しも帰宅した利則に妻との関係を疑われて問責されることとなつた」と認定するのが相当であつて、原判決の右判示部分は誤りであるといわなければならないが、このことは判決に影響を及ぼすものとまでは認め難い。
結局弁護人、被告人の各所論はいずれも理由がないことに帰する。
よつて刑事訴訟法三九六条に則り、本件控訴を棄却し、刑法二一条に従い、当審における未決勾留日数中一二〇〇日を原判決の本刑に算入することとし、当審における訴訟費用は同法一八一条一項但書を適用して被告人にこれを負担させないこととして主文のとおり判決する。